稚内港、氷雪の門、ノシャップ岬

6月4日(日)雨
氷雪の門  9:19 
正式名称「樺太島民慰霊碑」
碑文
人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った。
戦後はその門もかたく鎖された。
それから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、
肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、木原豊治郎氏、笹井安一氏の熱意と、
全国樺太連盟の賛同、並びに全国からの心あたたまる協力によって、ここに記念碑を造る。
氷と雪のなかで、きびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、
霊石を三位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がった。
この記念碑を氷雪の門と命名した。
氷雪の門 説明板
「氷雪の門」は、高さ8mの「望郷の門」、雪と氷の中で厳しく生き抜き、
そして敗戦の失意から再びたくましく立ち上がった人々を
象徴する高さ2.4mの女性像からなっている。
日本領だった南樺太(サハリン島)には、終戦当時約42万人の日本人が生活していた。
ソ連軍の突然の進撃により全てを捨て祖国に逃げ帰ることになった。
 かえらぬ樺太への望郷の念と、かの地で没した幾多の同胞の霊を慰めるため、
昭和38年(1963)8月に建立以来、稚内市では毎年8月に、
樺太ゆかりの人々による慰霊祭「氷雪の門・九人の乙女の碑平和祈念祭」を行っている。
九人の乙女の碑
昭和20年(1945)8月20日、終戦5日後に、樺太真岡郵便局で電話交換業務を終えた後、
自ら若い命を絶った9人の女性の霊を慰めるために建てられた。
 交換手姿の乙女の像を刻んだレリーフをはめ込み、亡くなった9人の女性の名前、
そして彼女たちの最後の別れの言葉となった「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」の文字が刻まれている。 詳しくは、「九人の乙女の物語」 を参照。
皆さん、これが最後です。さよなら、さよなら
殉職九人の乙女
碑文
戦いは終わった。
それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。
その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。
戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、
死を以って己の職場を守った。
 窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……」の言葉を残して
静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。
戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む。
昭和38年8月15日 稚内市長 浜森辰雄
九人の乙女の碑

氷雪の門
氷雪の門
稚内公園から稚内市休憩展望施設と開基百年記念塔を見る
昭和天皇行幸啓記念碑
九人の乙女の悲話を聞き、この時の感銘を詠んだ歌が刻まれている。
1986年(昭和43年)昭和天皇・皇后両陛下行幸啓記念説明板
氷雪の門
氷雪の門
稚内市街 9:21

稚内港北防波堤ドーム
稚内市街 サフィールホテル稚内 9:30
北防波堤ドーム
北埠頭が旧樺太航路の発着場として使われていたとき、
ここに通じる道路や鉄道へ波の飛沫がかかるのを防ぐ目的で、
昭和6年(1931)から昭和11年(1936)にかけ建設された防波堤。
 樺太へと渡る人々で賑った頃のシンボルでもあり、
古代ローマ建築物を思わせる太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊は、
世界でも類のない建築物として内外の注目をあびている。

  半世紀を経て老朽化が著しかったため、昭和53年(1978)から3年間、
全面的に改修工事が行われ、昭和55年(1980)にその独特の景観がよみがえり、
高さ13.6m、柱の内側から壁までが8m、総延長427m、柱の総数70本、
半アーチ式の構造形式である。平成13年(2001)に北海道遺産に指定されている。
詳しくは、北防波堤ドーム物語を参照。
北防波堤ドーム
設計者は、北海道庁の技師として稚内築港事務所に赴任してきた
北海道大学を卒業して3年目、当時26歳であった土谷実氏である。
稚泊航路記念碑、C55 49機関車動輪、巡視船「りしり」
C55 49機関車動輪
昭和12年C55型として製造され、わが国では49番目にあたる機関車の主動輪である。
昭和20年までは、稚内と大泊(現サハリン州コルサコフ)を結ぶ稚泊連絡船への接続列車を、戦後急行「利尻」をけん引するなど活躍した。
稚泊航路記念碑
大正12年(1923)、鉄道省により稚内~大泊(現・サハリン州コルサコフ)間に
連絡航路が開設された。
 以後終戦の昭和20年(1945)8月に閉鎖されるまでの22年間の業績を讃えるため、
昭和45年(1970)11月に建立された記念碑。
 「稚泊連絡航路」22年の歴史の中で行き来した乗客は284万人にものぼる。
碑文
 この地稚内から、いまは異国の地、樺太大泊に、国鉄稚泊航路が開設されたのは、
宗谷線が稚内まで全通した翌年の大正12年5月1日である。
 この航路は、167キロの海上を約9時間を要し、ときに宗谷海峡特有の濃霧、
あるいは結氷、流氷との悪戦苦闘により守られてきた。
 昭和2年砕氷客貨船亜庭丸(3,355トン)、昭和7年最新鋭船宗谷丸(3,593トン)が
就航するに及び、その往還は飛躍的に繁栄の一途をたどってきた。
 しかし、終戦直後の昭和20年8月24日18時、22年にわたる歴史的使命を終え、
その幕を閉じたのである。
 いまここに星霜20有余年、稚内桟橋がその面目を一新するときにあたり、
有志相図り稚泊航路の輝かしい業績と、幾多先人の苦労を銘記してこの碑を建立し、
永久に記念するものである。
 昭和45年11月吉日
 有志を代表して
 旭川鉄道管理局長 深沢今吉
 稚内市長 浜森辰雄
稚内海上保安部所属  巡視船「りしり」 1,500トン
サフィールホテル稚内 9:32
稚内港北防波堤ドーム 9:32

ノシャップ岬(野寒布岬)
ノシャップ岬 稚内灯台 9:44
明治33年建設、高さ42.7m、映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケ地。
周辺には稚内市立ノシャップ寒流水族館、青少年科学館、土産店などがある。
恵山泊漁港公園 イルカ像
恵山泊漁港公園 駐車場
海上自衛隊稚内基地
陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊や情報本部が共同使用している。
恵山泊漁港公園 イルカ像 9:44
イルカ像の時計は9:46を示している。
ノシャップ岬
ノシャップとは、「岬のそば」「岬がアゴのように突き出たところ」というアイヌ語、
「ノッ・シャム」が語源となっている。
 眼前には秀峰「利尻山」と花の浮島「礼文島」、サハリンの島影をも一望することが
できるが、あいにくの雨で何も見えなかった。
夕暮れ時には地平線に沈む夕日が感動的な情景をつくりだすらしい。
稚内灯台
ノシャップ岬で記念撮影 9:45
ノシャップ岬で記念撮影 9:45

ノシャップ岬から稚内港に戻り利尻島に行く
稚内港 10:05
稚内道の駅駐車場 10:06
JR稚内駅 10:08
日本最北端の駅
JR稚内駅 日本最北端の駅
JR稚内駅付近
JR稚内駅付近 10:08
稚内海上保安部所属  巡視船「りしり」 1,500トン 10:33
 HeartLandFerry「サイプリア宗谷」 10:48
礼文島にのみ生息するレブンアツモリソウにちなんで、
アツモリソウの学名「CYPRIPEDIUM(サイプリペディウム)」に、
国・地域名「IA」を合わせた造語で、花言葉は「君を忘れない」。
船体カラーは、コーポレートカラーの濃藍色と北海道の澄んだ空気と太陽が作り出す、
鮮やかな朝焼け・夕焼けをイメージした「茜色(あかねいろ)」。
客室のインテリアコンセプト「心の旅」「大自然の優しさに目覚める旅」を基本テーマと
してデザインされた心地よい空間を提供する船として建造。
稚内港 11:11
稚内港発11:10----12:50鴛泊港着
稚内港ー鴛泊港航路
自衛隊稚内基地 11:35
自衛隊稚内基地 11:35




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